平衡と不均衡のメタゲーム

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  • 「自由(価値の多様性)の保障」という目的では情報社会論、ひいては後期近代は一致している。
  • だが「手段」において保守主義をとるか、コミュニタリアニズムをとるか、リバタリアニズムをとるかが分かれる(あるいはさらに立場が細分化される)。どこに比重を置くかという程度の違いである。
  • 思想において、何か固定的な目的あるいは手段を想定することは、必然的に他の可能性を排除することにつながる。その限りにおいて思想は必然的に保守主義である*1。だがこれを言ってしまっては、無限遡及の果ての保守主義という感じもする。
  • 平衡か不均衡か、という一つメタなレベルでの(時間軸的といってもいいかもしれない)保守と革新を想定してみる。
    • 平衡、バランスを求めること、すなわち静的状態の保持。メタな保守主義
    • 不均衡、アンバランスでありつつ、逆の立場との接続可能性も開き、往復運動をすること。変わり続けること。不安定。すなわちダイナミクスの原則。メタな革新。
  • やはり思想は容易に逆の立場に転じ得るのかもしれない。以下、MIYADAI.comより。

リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、リベラリズムでは足りないとコミュニタリアニズムが主張される。でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな追加措置が提案され、一部リバタリアニズムが再評価される。こうした三者の円環が、政治思想の煮詰まった今日的状況だ。
(「リバタリアニズムリベラリズムコミュニタリアニズムの円環 - MIYADAI.com Blog」*2)より

  • 吉田民人氏のおっしゃった「(現実を見て)ケースバイケースで」というのも、メタゲームの果ての達観ゆえだろう。

*1:たとえば「流動性を保持せよ」という発想すら、流動性というひとつの状態を保持することを想定し、「流動性を否定する」という可能性を排除している。この思考の固定状態に陥ればいわば保守主義化する。

*2:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=28